吹浦漁港

【概要】
・所在地:飽海郡遊佐町大字吹浦
・種別:第1種漁港(管理者:山形県)
・漁港指定:昭和26年7月10日
・関係漁協:山形県漁業協同組合吹浦支所

【沿革】
 本漁港は、庄内海岸の北側に位置し、二級河川月光川の河口にある。古くから鮭漁が盛んな所であり、沿岸漁業及び沖合漁業の根拠港である。また、漁港北側には史跡十六羅漢、南側には海水浴場、背後には鳥海山、付近には温泉がある観光地でもある。
 本漁港の旧港は月光川の河口港であったが、漁船の大型化に伴い漁港を拡張する必要が生じたため、昭和44年度から月光川左岸の海浜地に新港の整備に着手し、昭和54年2月に開港した。しかし新港建設地は波浪流による漂砂が著しい所であり、航路を確保するため、開港後も引き続き外郭施設の整備を実施、平成12年度~平成13年度には航路への漂砂流入を防ぐ防砂突堤を整備した。今後はこれらの施設の効果を観測しながら、漂砂対策を検討していく。

吹浦よもやま話

【吹浦のむかし】

 天明8年6月(1788年)古川古松軒は、東遊雑記に、「吹浦二百件ばかりの港にて、五・六十石積みの海舟ならでは入津ならず。この所大物忌の神社あり。この海浜は縹渺とせし、砂原にして草木更なし。荒浪立重る、見る目もおそろし。」と二百年前に書いている。

 吹浦から三崎山の秋田県境まで五~六キロメートルは岩礁海岸。鳥海山猿穴溶岩が西に流出し、十六羅漢岩、南光坊坂、釜磯、三崎山をつくり、島崎、瀧野浦、女鹿部落と北に続く。出羽国一の宮大物忌神社のある吹浦は古く開け、吹浦遺跡、三崎遺跡等あり。吹浦遺跡は大正時代本県で初めて科学的調査が行われ、縄文期の吹浦式土器が土出、また貝塚でシジミを主体にバイ・アサリ十三種発見。イシガメ・イノシシ・シカ・クジラ等の鳥獣骨片と石器も出土。

 古来から人馬の往来多く、芭蕉をはじめ紀行文学に登場する。国境、藩境の関所が吹浦、女鹿にあり、動乱期の兵火戦場となった。吹浦小学校裏の一番高い林内に、幕末外国船遠見番所(唐国場)がおかれ、第二次大戦の時には防空監視所があった。


吹浦の漁業】

 延享3年(1746年)の幕府巡見視覚帳による吹浦村(横町・宿町)家数119軒、595人、村高160石余。漁船7隻で鰯網、手繰網、指網役126匁金年貢。滝野浦、女鹿村も同様漁業を営み三業種の税を負担、他に塩釜1ヶ当り塩年貢5石を上納している。

 明治29年の吹浦村の県漁業誌による漁業のあらましをみると、310戸、漁業戸数101戸、漁業収穫2,778円、一戸当50円余。指網・延縄・手繰網等で「さけ・たい・かき・かながしら」の順位であった。特に手繰及び延縄が主で、いわがきが名産である。北海道出稼者9隻148人、鱈・鰊漁で7,400円の収益である。小鯛配縄組合議定書(明治26年25名)、手繰舟規約書(明治44年19名)他の文書が現存するが、漁場の利用、操業方法、事故時の救難等についての詳しい取りきめがある。明治・大正頃迄は沿岸にたい・かれいが豊富であった。


吹浦の港】

 月光川河口にある第一種漁港。河口港のため河川からの流送土砂、外海からの漂砂による埋没甚だしく水深が浅くなり春・冬の出入困難なため、左岸の西浜海浜地に新港を計画、昭和54年新港開港。吹浦の湊の歴史を語るとき、遊佐郷大肝煎高橋兵右衛門(正保年、1645年)文政頃の宿町の阿部清右衛門のことを忘れることができない。特に阿部清右衛門は舟の事故が多発するのは湊が不完全なことによると考え、改修を企画し、文政6年(1823年)から年間寝食を忘れ、自費を以て湊の築港工事に努力し、出入港の舟の安全に資した。また防風林として渋ヶ森に植林し、今も清右衛門爺山(センジヤヤマ)と称しその功偲んでいる。

 この間1063人の人夫と188443文を費やしている。藩はこの事業に20両を無利子で貸与したのみであったから、受益者である飛島の浦村の長人庄兵衛、法木の長人孫左ヱ門の両人とも築港完成後安全に河口の港に入船できるようになったり、銀10匁ずつの徴収に応じる約束をしている。

大正7年飽海郡水産組合が45,000円で拡張修築を行っている。その後も埋没、漂砂で水深不足となり、漁業者団体の陳情運動で、泊地や航路の浚渫工事を実施している。

昭和26年漁港法により第一種漁港指定。港の管理も吹浦村、遊佐町、さらに昭和44年山形県に変わり、同年から月光川河口南側砂浜に掘込式の新港建設に着工、昭和54年開港。

※(出羽の海庄内浜「漁業史よもやま話」西長秀雄氏著より)


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