小波渡漁港

 【概要
・所在地:鶴岡市大字小波渡
・種別:第種漁港(管理者:山形県)
・漁港指定:昭和27年12月29
・関係漁協:山形県漁業協同組合豊浦支所

【沿革

 本漁港は、鶴岡市の市街地から南西約17kmの地点に位置する沿岸漁業の根拠地である。
 漁港の整備は大正12年頃における漁業不振の救済策として実施されたものが最初である。昭和34年度からは数次にわたり防波堤、物揚場等を整備してきたが、漁船の大型化、増加に伴い、昭和57年度に新港整備に着手、平成6年度に管理者を山形県に変更してからも引き続き整備を進め、平成11年度に共用開始した。その後も静穏度確保のため、防波堤の整備を進め、平成14年度に完成した。

小波渡よもやま話

小波渡というところ】
 小波渡の地名は、西方に切通という岩山があって陸路無く、昔は隣村堅苔沢への往来は海上を船で渡り、小波を渡ことから称したという。

八森山の北西に位置し、海岸に砂浜はあるが、海にそそぐ沢川がなく、田畑は少なく漁業を専業とする村である。

 開村の起源は、佐藤五郎右衛門家系譜によると、源義経の家臣・奥州信夫郡の領主佐藤庄司基晴が一族郎党と共に源義経を慕い三瀬に至り、その孫信通等18戸がこの地を開き漁業を始めたという。

 小波渡は佐藤姓を名のる家が多く、大正8年祖元崇敬のため大清屋(オミジヤ)に開村碑を建立。

小波渡は古くから沖合い漁業や県外出漁の先駆者である。沖合鱈・アラ場釣漁業を創始し、鯛延縄漁では越後・秋田佐竹藩領沖合まで出漁した。明治以後は庄内川崎漁方衆の中核として、北海道、樺太の鱈釣、鰊刺網出稼に進出した。鱈・鰊不漁となると北海道・青森方面の烏賊漁にも出た。村の8割に及ぶ漁民が、毎年3月~10月のヶ月間を出稼する慣例で、鰊漁全盛期の明治中期には出ぎ御殿が狭い村内に立ち並んだ。


江戸時代の漁業】

慶長16年(1611年)の検地帳写によると、家数67戸、漁船12隻。小物成鮭20本、鯖200、大魚貫、才長烏賊30、夜繰鯛3枚、若布1俵を上納し、越後以北三瀬沖までの鯛延縄漁業を独占していた。

 元禄10年(1697年)25隻、宝永7年(1710年)34隻。江戸中期昭和年(1768年)の船調によると人乗縄船、3人乗縄船38、磯見船145隻で庄内第一の漁村。

 文化3年(1806年)幕命による最上徳内の浦々巡回報告では、「家数88軒、船41隻。10月から翌月まで鱈・鮫・鯛・アラ・眞鰈・烏賊の釣漁。34月は平目・金頭などの釣漁。57月は小鯛釣と手繰漁でいろいろな小魚をとり、月は鯖釣漁。そのほか鮑を少々とる。」と書いている。

 小波渡村には多くの浦方史料として、貴重な古文書が残されており本県漁業史研究の宝庫である。

 当時、小波渡・堅苔沢両村は鼠ヶ関沖から三瀬葉山沖までの鯛縄漁場を独占していたが、寛政7年(1795年)月に両村漁船隻が秋田領海男鹿之島に出漁。文政年(1820年)には、有名な秋田佐竹右京太夫様従御役所川崎漁師共エ申渡サレ候御書が出された。秋田魚市場に庄内川崎縄船の小鯛が席巻したことに反対の秋田漁民が、庄内漁船の釣餌が腐蝕朽廃し一般漁業の妨害になるので、延縄禁止せられたいと秋田藩庁に訴へ出た。ところがかえって市場方からは鯛不足を来し困るので、操業を続けてほしい旨の願いが出された。従ってこれまでのように漁業勝手たる旨申渡された文書が残っている。

※(出羽の海庄内浜「漁業史よもやま話」西長秀雄氏著より)


小波渡漁港データ

港データ
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