酒田港

【概要】 
住所:酒田市浜松町

港勢データ(平成19年度)
酒田港 隻数:95隻
遊漁船 隻数: 7隻
漁業経営体数:77体
漁  獲  量:2,624,063kg
生  産  額:920,177(千円)


【酒田港のあゆみ】
○藩政時代、それ以前
 酒田の町づくりは古く、「坂田」あるいは「砂潟」と呼ばれ、和銅5年(712年)頃、大和朝廷が出羽国を建て蝦夷を平定していた頃にさかのぼり、延歴23年 (804年)頃は、出羽文化の中心として栄えました。当時は、河口を利用した小規模なものでしたが、寛文12年(1672年)河村瑞賢が西回り航路を開拓してから、物資の交易で港が繁盛し、日本屈指の港となりました。

○明治時代
 最上川の相次ぐ出水による流送土砂で河口が定まらず、船舶も帆船から汽船の時代になり、船型も大型化したため港勢に衰えを見せましたが、明治17年に政府の治山治水事業による最上川の改修によって河口の安定と流路の整正がはかられた結果、一時利用度は持ちなおしました。しかし、奥羽本線等の開通により、再び港は衰えることとなりました。

○大正時代
 陸羽西線(大正3年)および羽越本線(大正13年)などの鉄道が開通したことで陸上交通が盛んになり、港の衰えが目立ちましたが、大正6年に内務省が洪水対策として最上川の改修工事に着手し、川と港湾を分離する画期的な背割堤を築堤したことで、酒田港は近代港湾に生まれ変わりました。

○昭和時代
 酒田港は地理的、産業的条件から交通拠点としての重要性が認識され、昭和4年に第二種重要港湾となりました。戦後の昭和23年には開港場の指定を受け、 26年港湾法施行とともに重要港湾となりました。酒田市も29年には隣接する町村を合併して港湾都市としての形態を整えました。更に本港地区の取扱貨物量の増大と新たな工業用地を確保するため、45年から掘込み式の北港建設に着手し、49年の第1船の入港をもって開港となりました。

○現在
 日本海を経て酒田港に至る「東方水上シルクロード」が、7年には韓国釜山港との定期コンテナ航路がそれぞれ開設されました。12年には多目的国際ターミナルが供用開始され、環日本海圏の経済交流を支える物流拠点港として機能する一方、14年には大規模震災時に防災拠点となる耐震強化岸壁も完成しました。また、15年には総合静脈物流拠点港(リサイクルポート)に指定され、従来から行われていたリサイクル事業に加え、新たに遊技機器、変圧器、廃自動車などのリサイクル企業の進出や、風力発電所の建設などが進み、循環型社会の構築に寄与しています。
(酒田港湾事務所 酒田港のあゆみより)

酒田周辺よもやま話

【十里塚の漁業】

 浜通り、古湊・宮海・白木・青塚・十里塚の5ケ村を昔遊佐の5浜という。また能登興屋・上林興屋・服部興屋を加えて川北浜組八浦ともいった。この村々は漁業と塩焚を生業としていた。戦前までは鰯地曳網と定置網を営み、北海道出稼漁業が盛であった。

このなかの十里塚は、川南の旧袖浦村・現酒田市の十里塚と同名なので間違わないように、夫々川北の村を下十里塚、川南を上十里塚と区別して呼んでいる。

川北の下十里塚は延享年(1746)の巡見使御用覚書によると、43軒、213人。漁船隻、鰯網、手繰網、刺網役(税金)で分銭811文。塩釜10枚塩年貢7石5升2合で、宮海・青塚につぐ川北では番目の高。当時より地曳網の村で納屋制。建網は明治44年に始めて行成網であったが、昭和年頃三瀬の伊関氏に習って両目改良網を導入。当初は雑魚網で鮭は300400本が平年漁。終戦後は1,0003,000本と豊漁。昭和24年土門豊吉村議、海区調整委員の尽力で北の建場許可を得て、二ケ統操業となる。昭和30年代の不漁期を克服し、昭和47年起船を動力化、番屋を吹浦に移し十里塚鮭建網組合設立。組合長富樫庄太郎組合員20名。

昭和50年初めには1漁期20,000尾をこえる好漁となり、組合員も50名に増加し鮭景気を迎える。しかし近年不漁期に陥りこの年は年平均4,000尾弱に激減。早急な資源回復がまたれる。


【宮野浦というところ】

古くから最上川が日本海に注ぐ河口左岸にある砂浜漁村で、酒田発生の地である。

平安中期の拾遺和歌集の古歌にある袖ノ浦は当地といわれる。500年昔の明応年間千数百戸と栄えていたが、水害により酒田は北岸に移転を開始した。以来宮野浦は純漁村となる。浜街道の宿場で伝馬があり、渡船場がおかれた。阿部、白旗等の廻船船宿があり、また享保8年からみを教船が北前船等の水先案内を営業していた。

明治3年の村高帳によると家数142、人数832、船宿業軒、運上(税金)に地曳網・刺網・八ツ目御役を納め、農業の手透に男女共漁渡世とある。宮野浦は海も川漁も盛で明治30年の県漁業誌には海では鰈・平目が位、鰯・鯛・コアミ・イナダ・ガザミ・バイガイの順。川では鮭・八つ目鰻・鱒・蜆の漁獲が多く、かっちゃくりという蜆漁で1漁期戸70円の年もあった。

秋も深まると最上川に鮭が遡上してくると、さけ流網がはじまり、豊漁年には11,000匹も漁獲し、越冬米が賄えたという。新堀・鵜度川原の地曳網・居繰網も操業され、一秋で15万尾もの水揚があり、庄内一円、新庄、山形方面にも販売されていた。河口鮭増殖見直しによって昭和40年代に消滅した。


四ケ浦の村々】

 県一円の山形県漁協に合併する以前の旧四ケ浦組合は、その名の通り、西遊佐村、西荒瀬村、酒田、袖浦村の四組合が合併して、四ケ浦組合となったものであり、名づけ親は郡役所技手、県水試場長、加茂水産高校長で初代県水産課長の伊藤金次郎氏だといわれている。

 この四組合は大正87月飽海郡漁業協同組合連合会(組合員数1,074名)と結成し、漁獲物の共同販売を行ってきたり、また月山丸(木造12トン・焼玉12馬力)を県から貸付をうけて、漁場探検・漁業試験をつづけてきた。

 昭和8年の漁業法改正によって漁業組合は、出資性の協同組合として購買・販売などの経済団体としての機能が付与されるようになった。さらに時代は酒田地方においても漁船動力化がすすみ、手繰発動機船が増加し、酒田築港整備の進歩によって漁港が併置された。これらの背景のもと酒田に組合事務所本拠を設置し、四組合の合併を行うため昭和1212月合併総会を開いた。従来の地域型の漁業権保有団体から脱皮をはかり、産業組合化による経済事業の発展、特に流通販売、資金の融資による事業の強化を目指したのである。組合員1,066名の保証責任四ケ浦漁業協同組合となった。戦時中昭和18年水産業団体法により四ケ浦漁業会と名前が変り、戦後の昭和24年四ケ浦漁業協同組合となった。

※(出羽の海庄内浜「漁業史よもやま話」西長秀雄氏著より)

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