歴史タイトル

女鹿漁港のよもやま話

【女鹿の金蔵父子と建網】

 飽海郡旧吹浦村女鹿は秋田県境北端の部落で、あまはげの奇習で知られているが、この村内の松葉寺に菅原金蔵記念碑がある。金蔵は若年の頃北海道胆振国虻田で建網を研究し、安政2年(1855)女鹿で試み好成績をあげた。

 「近隣教エヲ請ウ者甚ダ多シ北越(新潟北部)ノ漁邑亦及ヲ期ス・・・」と碑文にある。また山形県史漁業編定置漁業の頃に、米子(鶴岡市(旧温海町))では明治13年女鹿の喜助を指導者として招き、翌年建網を操業したとある。金蔵・喜助・善蔵三代は明治初期の建網草創に功績があったことを、この碑文が物語っている。

※(出羽の海庄内浜「漁業史よもやま話」西長秀雄氏著より)


吹浦よもやま話

【吹浦のむかし】

 天明8年6月(1788年)古川古松軒は、東遊雑記に、「吹浦二百件ばかりの港にて、五・六十石積みの海舟ならでは入津ならず。この所大物忌の神社あり。この海浜は縹渺とせし、砂原にして草木更なし。荒浪立重る、見る目もおそろし。」と二百年前に書いている。

 吹浦から三崎山の秋田県境まで五~六キロメートルは岩礁海岸。鳥海山猿穴溶岩が西に流出し、十六羅漢岩、南光坊坂、釜磯、三崎山をつくり、島崎、瀧野浦、女鹿部落と北に続く。出羽国一の宮大物忌神社のある吹浦は古く開け、吹浦遺跡、三崎遺跡等あり。吹浦遺跡は大正時代本県で初めて科学的調査が行われ、縄文期の吹浦式土器が土出、また貝塚でシジミを主体にバイ・アサリ十三種発見。イシガメ・イノシシ・シカ・クジラ等の鳥獣骨片と石器も出土。

 古来から人馬の往来多く、芭蕉をはじめ紀行文学に登場する。国境、藩境の関所が吹浦、女鹿にあり、動乱期の兵火戦場となった。吹浦小学校裏の一番高い林内に、幕末外国船遠見番所(唐国場)がおかれ、第二次大戦の時には防空監視所があった。


吹浦の漁業】

 延享3年(1746年)の幕府巡見視覚帳による吹浦村(横町・宿町)家数119軒、595人、村高160石余。漁船7隻で鰯網、手繰網、指網役126匁金年貢。滝野浦、女鹿村も同様漁業を営み三業種の税を負担、他に塩釜1ヶ当り塩年貢5石を上納している。

 明治29年の吹浦村の県漁業誌による漁業のあらましをみると、310戸、漁業戸数101戸、漁業収穫2,778円、一戸当50円余。指網・延縄・手繰網等で「さけ・たい・かき・かながしら」の順位であった。特に手繰及び延縄が主で、いわがきが名産である。北海道出稼者9隻148人、鱈・鰊漁で7,400円の収益である。小鯛配縄組合議定書(明治26年25名)、手繰舟規約書(明治44年19名)他の文書が現存するが、漁場の利用、操業方法、事故時の救難等についての詳しい取りきめがある。明治・大正頃迄は沿岸にたい・かれいが豊富であった。


吹浦の港】

 月光川河口にある第一種漁港。河口港のため河川からの流送土砂、外海からの漂砂による埋没甚だしく水深が浅くなり春・冬の出入困難なため、左岸の西浜海浜地に新港を計画、昭和54年新港開港。吹浦の湊の歴史を語るとき、遊佐郷大肝煎高橋兵右衛門(正保年、1645年)文政頃の宿町の阿部清右衛門のことを忘れることができない。特に阿部清右衛門は舟の事故が多発するのは湊が不完全なことによると考え、改修を企画し、文政6年(1823年)から年間寝食を忘れ、自費を以て湊の築港工事に努力し、出入港の舟の安全に資した。また防風林として渋ヶ森に植林し、今も清右衛門爺山(センジヤヤマ)と称しその功偲んでいる。

 この間1063人の人夫と188443文を費やしている。藩はこの事業に20両を無利子で貸与したのみであったから、受益者である飛島の浦村の長人庄兵衛、法木の長人孫左ヱ門の両人とも築港完成後安全に河口の港に入船できるようになったり、銀10匁ずつの徴収に応じる約束をしている。

大正7年飽海郡水産組合が45,000円で拡張修築を行っている。その後も埋没、漂砂で水深不足となり、漁業者団体の陳情運動で、泊地や航路の浚渫工事を実施している。

昭和26年漁港法により第一種漁港指定。港の管理も吹浦村、遊佐町、さらに昭和44年山形県に変わり、同年から月光川河口南側砂浜に掘込式の新港建設に着工、昭和54年開港。

※(出羽の海庄内浜「漁業史よもやま話」西長秀雄氏著より)


酒田周辺よもやま話

【十里塚の漁業】

 浜通り、古湊・宮海・白木・青塚・十里塚の5ケ村を昔遊佐の5浜という。また能登興屋・上林興屋・服部興屋を加えて川北浜組八浦ともいった。この村々は漁業と塩焚を生業としていた。戦前までは鰯地曳網と定置網を営み、北海道出稼漁業が盛であった。

このなかの十里塚は、川南の旧袖浦村・現酒田市の十里塚と同名なので間違わないように、夫々川北の村を下十里塚、川南を上十里塚と区別して呼んでいる。

川北の下十里塚は延享年(1746)の巡見使御用覚書によると、43軒、213人。漁船隻、鰯網、手繰網、刺網役(税金)で分銭811文。塩釜10枚塩年貢7石5升2合で、宮海・青塚につぐ川北では番目の高。当時より地曳網の村で納屋制。建網は明治44年に始めて行成網であったが、昭和年頃三瀬の伊関氏に習って両目改良網を導入。当初は雑魚網で鮭は300400本が平年漁。終戦後は1,0003,000本と豊漁。昭和24年土門豊吉村議、海区調整委員の尽力で北の建場許可を得て、二ケ統操業となる。昭和30年代の不漁期を克服し、昭和47年起船を動力化、番屋を吹浦に移し十里塚鮭建網組合設立。組合長富樫庄太郎組合員20名。

昭和50年初めには1漁期20,000尾をこえる好漁となり、組合員も50名に増加し鮭景気を迎える。しかし近年不漁期に陥りこの年は年平均4,000尾弱に激減。早急な資源回復がまたれる。


【宮野浦というところ】

古くから最上川が日本海に注ぐ河口左岸にある砂浜漁村で、酒田発生の地である。

平安中期の拾遺和歌集の古歌にある袖ノ浦は当地といわれる。500年昔の明応年間千数百戸と栄えていたが、水害により酒田は北岸に移転を開始した。以来宮野浦は純漁村となる。浜街道の宿場で伝馬があり、渡船場がおかれた。阿部、白旗等の廻船船宿があり、また享保8年からみを教船が北前船等の水先案内を営業していた。

明治3年の村高帳によると家数142、人数832、船宿業軒、運上(税金)に地曳網・刺網・八ツ目御役を納め、農業の手透に男女共漁渡世とある。宮野浦は海も川漁も盛で明治30年の県漁業誌には海では鰈・平目が位、鰯・鯛・コアミ・イナダ・ガザミ・バイガイの順。川では鮭・八つ目鰻・鱒・蜆の漁獲が多く、かっちゃくりという蜆漁で1漁期戸70円の年もあった。

秋も深まると最上川に鮭が遡上してくると、さけ流網がはじまり、豊漁年には11,000匹も漁獲し、越冬米が賄えたという。新堀・鵜度川原の地曳網・居繰網も操業され、一秋で15万尾もの水揚があり、庄内一円、新庄、山形方面にも販売されていた。河口鮭増殖見直しによって昭和40年代に消滅した。


四ケ浦の村々】

 県一円の山形県漁協に合併する以前の旧四ケ浦組合は、その名の通り、西遊佐村、西荒瀬村、酒田、袖浦村の四組合が合併して、四ケ浦組合となったものであり、名づけ親は郡役所技手、県水試場長、加茂水産高校長で初代県水産課長の伊藤金次郎氏だといわれている。

 この四組合は大正87月飽海郡漁業協同組合連合会(組合員数1,074名)と結成し、漁獲物の共同販売を行ってきたり、また月山丸(木造12トン・焼玉12馬力)を県から貸付をうけて、漁場探検・漁業試験をつづけてきた。

 昭和8年の漁業法改正によって漁業組合は、出資性の協同組合として購買・販売などの経済団体としての機能が付与されるようになった。さらに時代は酒田地方においても漁船動力化がすすみ、手繰発動機船が増加し、酒田築港整備の進歩によって漁港が併置された。これらの背景のもと酒田に組合事務所本拠を設置し、四組合の合併を行うため昭和1212月合併総会を開いた。従来の地域型の漁業権保有団体から脱皮をはかり、産業組合化による経済事業の発展、特に流通販売、資金の融資による事業の強化を目指したのである。組合員1,066名の保証責任四ケ浦漁業協同組合となった。戦時中昭和18年水産業団体法により四ケ浦漁業会と名前が変り、戦後の昭和24年四ケ浦漁業協同組合となった。

※(出羽の海庄内浜「漁業史よもやま話」西長秀雄氏著より)

飛島よもやま話

【昔の飛島】
 江戸時代、飛島の戸数は157軒、人口1,000人以内。勝浦村(枝郷小坂村寛文年頃20戸を含む)、浦村と法木村の3村で、庄内藩に対して年貢スルメ50駄(壱駄二付弐千枚宛)。勝浦19、法木19、浦(中村)12駄の割合で納め、男1人前平年で150枚程度。一戸分(田畑、屋敷割で差)70枚から400枚であった。

 田畑が少なく、漁業中心で、主として釣漁でイカ、タラ、スケトウ。さらに島周辺は磯根資源が豊富で、アワビ、サザエ、ワカメ、アラメ、イワノリ、イギス、テングサ、エゴノリ等の採貝採藻で魚類に匹敵する漁獲があった。

 しばしば、3部落間の争いが起り、「享保の境論」、「天保の鱈場争い」、「幕末から明治にかけての西鱈場問題」、さらに「対岸吹浦漁民との東鱈場争論」と明治以後も漁場争いがあった。漁業権制度史、漁業法規を研究する学界の好箇の資料として有名である。

 飛島は北前船の沖乗航路の中継港であり、酒田の補助港として年間500艘の廻船が出入りして、13軒の問屋が、澗役銭・塩役銭の徴収を行った。藩から島役人が月から月まで駐在して役銭の取立てをはじめ、郡代の支配下島の行政に当たっていた。

※(出羽の海庄内浜「漁業史よもやま話」西長秀雄氏著より)


湯野浜よもやま話

【湯野浜というところ】

湯野浜は塩焚の盛んな村で、塩年貢高の川北の青塚に次いで多い12石であった。揚浜法製塩で、村有の塩釜焚付谷地をもっていた。草分けの五十嵐三郎右エ門家は、塩焚をするため下川から移ってきたと言伝えられている。

江戸中期に製塩が衰えると替わって漁業が盛んになった。漁猟役(漁業税)を毎年永835分(金1朱半)7軒の地曳納屋から上納していた。江戸中頃の庄内往来には湯野浜のキスが名産と書かれている。また湯野浜小鯛は他では味わうことのできない美味として温泉客に賞味された。

 

【宮沢というところ】

宮沢は湯野浜の南隣りで、小川を境として殆ど同じ部落のように連なっている。山を隔てた下川馬町の椙尾神社の御旅所であり、古くから祭礼のとき魚を供進する御贄浜であることから宮沢の地名がつけられた。伝説によると祭神の事代主神(大国主命の子)が、出雲の国から海を渡って最初に上陸した土地であるという。六月晦の夏越の大祓の神事では、椙尾神社の神輿渡御で宮沢海岸塩かけ岩に安置される。日没の頃小舟に神輿をのせ沖に漕ぎでて、形代を海に流して祓をする。神事のあと山越えすると、数百名の青少年の松明行列は壮観で他にその比をみない。

 古くから地曳網と塩焚が主であった。明治・大正期に延縄・刺網による鯛・鰈漁が盛んとなる。鰊刺網は江戸期に始まり当地が創始という。

 鰯地曳網は宮沢が南限で、金沢以南では磯のためできなかった。湯野浜では数人の共同経営者、宮沢は部落経営であった。北の十里塚・浜中等の強大な納屋制とは違い、共同経営方式では年番・まわり納屋だった。納屋の水揚配分は3人分で、船・漁具の管理や、日和見・告げ触れなどの漁撈全般を支配し、漁獲の半分をとる十里塚とは違う方式であった。鰯地曳網は昭和36年頃不漁のため消滅してしまう。大漁の頃は部落中の老若男女総出で網を曳き、夜も寝ないで鰯焼きをしたり、小学校も休校になるほどであった。

※(出羽の海庄内浜「漁業史よもやま話」西長秀雄氏著より)


金沢よもやま話

【金沢というところ】

高館山の西方山麓で、宮沢と加茂の中間にある。海岸一帯は岩場で暗礁が多く、海藻が繁茂してよい釣場である。

 出雲国熊野村(島根県八束郡八雲村熊野)から7軒が移住してきたと伝えられている。地名の金沢は沢水に洗濯にいった村の女が金塊を発見したことに由来する。移住の縁故から元村の熊野大神を勧請して村の鎮守とした。金沢村は椙尾神社の御旅所であり、宮沢とともに祭礼時に魚を奉納していった。耕地が少なく全戸漁家という純漁村で、刺網・延縄漁で生活してきた。戦国時代尾浦城主武藤氏に鮭・鯛を献じたり、南方からの荷物輸送に従事した功績により鱈・鰈・蟹漁場を授与されたといわれ、古くからの漁村である。

金沢と今泉は磯場が多く海藻採取が盛んである。冬のイワノリ、夏のモヅク・テングサ・エゴ採りである。

 金沢と今泉は、日本海側の海女の北限の一つである。日本海側の最北は秋田県男鹿半島の畠の海士・海女であるが、庄内の金沢・今泉の海女漁も古くから行われてきた。

 素潜漁には日本各地でクグルとモグル、カツグとスムの系統があり、古事記や日本書紀の古代以前から知られている古い漁法である。本県ではクグル、クグリという裸潜水で、海女のテングサ採りであった。裸潜水漁は岩場海岸で、海藻・貝類の豊富な自然条件の日本海側各地でみられる。アワビ採取が中核で男女双方が採取するが、魚突きは男の海士で海女にはみられない。テングサ・エゴは海女が多い。

 昭和40年以降はテングサ不作で海女潜りはなくなり、現在は吹浦の男潜りでイワガキ採取が行われている。

※(出羽の海庄内浜「漁業史よもやま話」西長秀雄氏著より)


加茂とその周辺よもやま話

【加茂の今昔】

 加茂は和銅年間(710年頃)能登からの移住によって開かれたと県史にある。武藤氏・酒井氏時代の海の出口である。西大廻航路の発達に伴い北前船の中継港・避難港・米・水の補給港となった。

さらに小廻り沿岸交易が盛んになる化政期以降は、米・酒の搬出や上方・北前、北国船による上り下り荷物、さらに最上内陸向け物資の中継、卸商港として加茂は栄えた。

代々の秋野家一族の尽力により港・加茂坂トンネル・道路改修も図られた。回船問屋・付船問屋十数軒ずつ並び、出船入船が輻湊した。100錬の土蔵が軒をつらね、酒造業者10軒、旅籠屋・遊郭もあった。明治12年の人口3,311人がピークで、寺も14ヶ寺あり有力富有者が多かった。

しかし、大正年鶴岡駅開設、大正13年羽越線開通後は海運が衰退し、商港としての役目は終り、漁港へと変っていった。

加茂は、本県機船手繰網の発祥地であり、北洋漁業基地である。明治末当時20歳代の菅原常治は県内初の発動機船を購入。誠喜丸・加茂丸で鮪・いか漁に出漁、また北陸方面から機船手繰網を導入、苦心して底曳の動力化に挑戦したものの、機械の故障多く大正9年破産してしまった。

大正年建造の県指導船月山丸(木造12トン、焼玉12馬力)は、エンジン直結の連動式揚網機を導入し本県初手繰網動力化に成功。これに習って加茂に機船手繰船が勃興し、大正12年頃は10隻をこす県内一の勢力となる。また六代尾形六郎兵衛は北洋漁業進出に成功、加茂は県内随一の漁港として、県水揚の半分を占めるに至った。

大正以降加茂の漁業全盛期で、測候所・輸出米検査所・県水試・造船所・水族館・港湾事務所・水産学校等があり、本県漁業の中心地として繁栄したが、戦後は酒田にその地位を譲っていった。


【金沢というところ】

 高館山の西方山麓で、宮沢と加茂の中間にある。海岸一帯は岩場で暗礁が多く、海藻が繁茂してよい釣場である。

 出雲国熊野村(島根県八束郡八雲村熊野)から7軒が移住してきたと伝えられている。地名の金沢は沢水に洗濯にいった村の女が金塊を発見したことに由来する。移住の縁故から元村の熊野大神を勧請して村の鎮守とした。金沢村は椙尾神社の御旅所であり、宮沢とともに祭礼時に魚を奉納していった。耕地が少なく全戸漁家という純漁村で、刺網・延縄漁で生活してきた。戦国時代尾浦城主武藤氏に鮭・鯛を献じたり、南方からの荷物輸送に従事した功績により鱈・鰈・蟹漁場を授与されたといわれ、古くからの漁村である。

金沢と今泉は磯場が多く海藻採取が盛んである。冬のイワノリ、夏のモヅク・テングサ・エゴ採りである。

 金沢と今泉は、日本海側の海女の北限の一つである。日本海側の最北は秋田県男鹿半島の畠の海士・海女であるが、庄内の金沢・今泉の海女漁も古くから行われてきた。

 素潜漁には日本各地でクグルとモグル、カツグとスムの系統があり、古事記や日本書紀の古代以前から知られている古い漁法である。本県ではクグル、クグリという裸潜水で、海女のテングサ採りであった。裸潜水漁は岩場海岸で、海藻・貝類の豊富な自然条件の日本海側各地でみられる。アワビ採取が中核で男女双方が採取するが、魚突きは男の海士で海女にはみられない。テングサ・エゴは海女が多い。

 昭和40年以降はテングサ不作で海女潜りはなくなり、現在は吹浦の男潜りでイワガキ採取が行われている。

※(出羽の海庄内浜「漁業史よもやま話」西長秀雄氏著より)

油戸よもやま話

【油戸というところ】

荒倉山の北山麓に位置し、東南北の三方は山に囲まれ、西は小湾により海に面する。

部落の起源は不詳である。150年前天保月大火で一戸を除き焼失、村内西光寺所蔵の村の旧記由緒書全てを失い口碑も残らない。西方天神山の大宰府神社は南北朝後村上天皇の頃の創起というので、村の起源も六百数十年頃と考えられる。

幕末の弐郡詳記によると、免七つ九分余(税貢租)、家数32軒、往古より半農半漁とある。80年前の大正年で戸数52戸、船数48隻、加茂漁業組合員80名で全村殆ど漁業を営んでいる。鯛釣、延縄、鰈釣、刺網、鱈釣、鮫刺網、鰯刺網、烏賊釣、蜂目釣漁が主な漁業である。明治初年から毎年7~9月のヶ月間秋田県能代港に小鯛釣漁に出稼し、収益を上げていった明治29年の漁業生産額万円で加茂の倍の水揚。

庄内沿岸で離島飛島を除いて、油戸は最も陸路不便であった。南の由良、北の今泉・加茂に通じる海岸は断崖絶壁で漸く徒歩で往復するのみで、東は大山鶴岡に南は上郷に通ずる二道があったが、坂道で自動車も通じない状態であった。近年、地元民の熱望により改修が進んだが、大時化・暴風雨のときには、屡々風波、落石等により海岸道路が不通となっている。国道7号が地吹雪等の事故発生時には、バイパスとして重要な代替機能をもつことを再評価して、全面的改修が望まれる。


【油戸炭鉱について】

江戸時代から石炭のあることが知られており、村内を流れる油川・油戸の地名も、石炭に連なる油状物質との関連があるといわれている。

明治8年開坑。殖産興業策の明治政府は工部省鉱山油戸分局として官営採鉱。明治29年三菱鉱業に払下げられ、佐渡鉱山の精錬・発電用燃料に使った。海岸までトロッコ運搬、沖合の汽船まで小舟で積出した。今も地元では「しやどま(佐渡澗)」という。

大正初期年産6,0007,000トン、従業員200名。一時閉山されたが、戦後再開、昭和27年産額5万3,000トン、従業員500名。三菱は西目字竹の浦に事務所・社員住宅・小学校を設置。油戸の東に柚子沢トンネルを開通させ石炭を竹の浦へ運び、大山駅まで専用軌道で貨車輸送を行い、もう一社の富士興産では山越えの索道で水沢駅へ積出していた。坑道は海面下まで延び、採炭1トンに湧水量トンと条件が悪くなっていった。黒いダイヤとして戦後の産業復興の花形企業であった炭鉱も、エネルギー革命の波に洗われ昭和34年閉山80年の歴史を閉じた。

※(出羽の海庄内浜「漁業史よもやま話」西長秀雄氏著より)

由良よもやま話

【由良というところ】

 ユラは揺りに通じ、波の激しい所、波浪が揺り上げられる海浜などをいい、近畿、中国、四国地方に分布する。

 出羽国庄内の由良は、丹波国(京都府)由良の浜に由来し、羽黒山開祖蜂子皇子が人尾乙女にあい上陸した時、従っていた舟人がこの地に住みついたと伝えられる。

 由良は荒倉山の南西、東に海岸丘陵、西は日本海、白山島が突出して2つの小湾を形成する。高さ72mの白山島にある白山神社は漁民の信仰が厚い。白山島で北の砂浜と、南の磯に分され遠浅で海面穏やか、フィッシングセンター・釣り桟橋・舟釣り・水上スキー等海洋レジャーが盛んである。

 平成年の「海の日」記念行事、日本の渚百選に選ばれた景勝地である。海に浮かぶ白山島と赤い橋・白い砂浜の眺望が美しく、日本海に沈む夕日の名所の名声が一層高くなった。

 背後の山々の緑濃く保養に適した漁村として、明治・大正頃から海水浴場として親しまれ、内陸の小学校の海浜学校で賑わった。昭和39年国道7号線が開通し、交通の便が良くなり、温泉も掘削され、旅館ホテル、民宿20軒で年間入込客数30万人の観光地である。

 

【由良の昔の漁業】

 由良は庄内藩時代、山浜通由良組に属し近隣14村の大庄屋和田家の所在地。元和年村高760石。幕末では戸数124軒。明治29153戸のうち漁家150戸。大正5年193軒。豊浦漁業組合員106名、船数168隻。

 県漁業誌では、庄内沿岸漁村中漁獲高由良に比肩すべきものなく、海面を縦横に遠距離の地に至り、競争して漁業をなし、何れも大胆不敵なりて由良漁夫に勝るもの無からんと書き、小波渡・小岩川と由良を当時の漁業先進地であると称賛する。

 西田川水産誌には、由良は1,300年前より漁業を営み、400年前、慶長年間には鱈配縄・鮫刺網・鮭刺網・手繰網及磯漁を営んだと記し、時代の進展とともに漁具漁法改良を加え鯛配縄・小鯛配縄・雑魚刺網と営むに至る。弘化年(1846年)鱒・鯔台網を開始。明治39年に二ヶ統に統合規模拡大し共同事業として成績頗る良好なりとある。鱒角網、鰯搾粕製造を共同事業として実施し漁民に配当と記す。

沖漁の開始は小波渡に比べて遅かったが、由良漁民は北は飽海・南は越後瀬波・佐渡の東海まで足跡至らざるところ無しと、進取に富んだ漁撈技術を賞している。

由良には歴代秀れた指導者が表われ、部落経営や漁業をリードした。

※(出羽の海庄内浜「漁業史よもやま話」西長秀雄氏著より)


三瀬よもやま話

【三瀬というところ】

 八森山の北麓、三瀬川左岸に発達した宿駅集落である。南方藤倉山より発する降矢川、水無川、西川の三川合流点に位置するところ、「三ツの瀬」三瀬となったという。

 部落の起源は第10代崇神天皇の御代三世紀前半、四道将軍大彦命が秋田に至る途中三瀬に宿泊されたと伝えられ、非常に古く開かれたという。

義経記には、源義経主従奥州下りの折、大雨のため三瀬薬師堂に日逗留したと記されている。南方の笠取峠を下って藤太坂をおりたところが三瀬の街で、右岸の気比神社付近から縄文・弥生・平安期などの遺物が出土している。気比神社は丹波国から移住した人々が越前敦賀の気比神宮から勧請したといわれ、農業と武の神を祭る社として信仰を集め、特に歴代庄内藩主の尊崇が厚かった。一帯は気比台の森として神聖な森として保護され、原生の姿を残し国指定天然記念物となっている。


【昔の三瀬】

 江戸時代三瀬は、越後と鶴岡・大山・酒田・秋田を結ぶ浜街道の宿駅として賑わい、旅籠屋軒と茶屋もあり、本陣軒と高札場、街の東西に木戸があった。文化12年伝馬数約40。西に笠取峠、東に山賊峠といわれた矢引峠の難所があり、旅人が難儀したという。

 小波渡・堅苔沢両村は鶴岡城下両肴町の仕入浜であり、三瀬の馬組が輸送に当り三瀬経由で肴問屋に売っていた。

 また加茂に薪炭を運ぶ小廻船が30艘位あった。昔の三瀬の漁業は振わず僅かに磯漁を営む者が数軒のみで、林産・耕作に適し、稲作収入が割をこえていた。

※(出羽の海庄内浜「漁業史よもやま話」西長秀雄氏著より)


小波渡よもやま話

【小波渡というところ】
 小波渡の地名は、西方に切通という岩山があって陸路無く、昔は隣村堅苔沢への往来は海上を船で渡り、小波を渡ことから称したという。

八森山の北西に位置し、海岸に砂浜はあるが、海にそそぐ沢川がなく、田畑は少なく漁業を専業とする村である。

 開村の起源は、佐藤五郎右衛門家系譜によると、源義経の家臣・奥州信夫郡の領主佐藤庄司基晴が一族郎党と共に源義経を慕い三瀬に至り、その孫信通等18戸がこの地を開き漁業を始めたという。

 小波渡は佐藤姓を名のる家が多く、大正8年祖元崇敬のため大清屋(オミジヤ)に開村碑を建立。

小波渡は古くから沖合い漁業や県外出漁の先駆者である。沖合鱈・アラ場釣漁業を創始し、鯛延縄漁では越後・秋田佐竹藩領沖合まで出漁した。明治以後は庄内川崎漁方衆の中核として、北海道、樺太の鱈釣、鰊刺網出稼に進出した。鱈・鰊不漁となると北海道・青森方面の烏賊漁にも出た。村の8割に及ぶ漁民が、毎年3月~10月のヶ月間を出稼する慣例で、鰊漁全盛期の明治中期には出ぎ御殿が狭い村内に立ち並んだ。


江戸時代の漁業】

慶長16年(1611年)の検地帳写によると、家数67戸、漁船12隻。小物成鮭20本、鯖200、大魚貫、才長烏賊30、夜繰鯛3枚、若布1俵を上納し、越後以北三瀬沖までの鯛延縄漁業を独占していた。

 元禄10年(1697年)25隻、宝永7年(1710年)34隻。江戸中期昭和年(1768年)の船調によると人乗縄船、3人乗縄船38、磯見船145隻で庄内第一の漁村。

 文化3年(1806年)幕命による最上徳内の浦々巡回報告では、「家数88軒、船41隻。10月から翌月まで鱈・鮫・鯛・アラ・眞鰈・烏賊の釣漁。34月は平目・金頭などの釣漁。57月は小鯛釣と手繰漁でいろいろな小魚をとり、月は鯖釣漁。そのほか鮑を少々とる。」と書いている。

 小波渡村には多くの浦方史料として、貴重な古文書が残されており本県漁業史研究の宝庫である。

 当時、小波渡・堅苔沢両村は鼠ヶ関沖から三瀬葉山沖までの鯛縄漁場を独占していたが、寛政7年(1795年)月に両村漁船隻が秋田領海男鹿之島に出漁。文政年(1820年)には、有名な秋田佐竹右京太夫様従御役所川崎漁師共エ申渡サレ候御書が出された。秋田魚市場に庄内川崎縄船の小鯛が席巻したことに反対の秋田漁民が、庄内漁船の釣餌が腐蝕朽廃し一般漁業の妨害になるので、延縄禁止せられたいと秋田藩庁に訴へ出た。ところがかえって市場方からは鯛不足を来し困るので、操業を続けてほしい旨の願いが出された。従ってこれまでのように漁業勝手たる旨申渡された文書が残っている。

※(出羽の海庄内浜「漁業史よもやま話」西長秀雄氏著より)


堅苔沢よもやま話

【堅苔沢というところ】
 村内の大波渡山留棹庵円通寺縁起によると、康平年(1061年)創建と伝えられ、当時すでに小部落が点在していたと考えられる。同寺には地先西方1キロメートル海上の留棹庵島の海中から上った、千手千眼観世音菩薩が安置されている。古くは淵の上・宮田の部落にわかれ半農半漁であった。宮田は波渡または大波渡とも称し漁業主体。淵の上地区は堅苔沢または中波渡ともいい農業主体であった。現在つの集落を総称して堅苔沢と呼んでいる。かたのりと称するのりの一種がとれることから、堅苔沢の地名がついたとの説がある。

 幕末の弐郡詳記による家数85軒。県漁業誌には明治29年の戸数79戸、人口609人、漁業者数135人。大正年、西田川郡水産誌に豊浦漁業組合中、堅苔沢の組合員74名とある。鶴岡市合併時の昭和29年末までは、164世帯・人口1,670人・児童数476人と、戦後の人口増を示している。同年の漁船数72隻、うち発動機船11隻・着火船15隻・無動力船46隻。漁獲高547トン・金額2,428万円といわし豊漁に賑わっていた。同年の出稼ぎ者数95人、うち北海道鰊場16人外となっている。

 また、北海道方面への大工・左官74人出稼ぎと郷土豊浦に記されており、当村は従前から大工・屋根葺師・木挽の多い集落だったことを示している。

 眺望絶景の波渡崎からは、南西遠く佐渡島、近くに粟島が望まれ、北に鳥海山の壮麗な山容が聳える。水面から40mの波渡崎灯台は昭和3012月初点で、秋田県境の羽後三崎灯台につぐ高土。光度8,500カンデラ・光達距離17,5浬である。灯台の傍らに昭和26年15日貞明皇后啓の折、この地で風景をご観賞された縁りの記念碑が建っている。

 堅苔沢港は、港口が東に開いた庄内浜随一の好漁港である。古くから時化のため近隣の漁船が、自港に帰帆できない時の避難港であった。横の澗とよばれる岩場の間の狭い舟路を通って出入し、県下最高の出漁数を数える船溜場であった。このため漁民の手で明治42年・大正年港の改良工事を行った。昭和年の大築港以来、発動機船・着火船が増加し、底曳網・延縄の沖合漁業が一層盛んとなった。昭和40年からは、東側に県営により新港建設が着手され、防波堤・泊地の拡張・港内静穏等の整備が促進された。

 港を見下ろす高所に、平成年漁業者会が建てた堅苔沢漁業会創立百周年記念碑は、地元漁業者の心意気を示すものである。

※(出羽の海庄内浜「漁業史よもやま話」西長秀雄氏著より)


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